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イタリア

コモ湖畔の書斎から2 dalla finestra lariana2

2018 07 13 Km 0
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庭に棕櫚の木が、ある。それも一本や二本でなく、いろんなところに植わっている。この棕櫚、おそらく20世紀初め頃まで、地中海、南の海に憧れてコモ湖畔に数多く植えられたものが、ほとんど自然に繁殖していったものだろう。
どうも違和感がある。オークや栗や、広葉樹に混じって、棕櫚が突然あるのは。そこで、長い柄のついた葉を切る。
イタズラ半分に、その葉を割いて箒を作った。これがなかなか調子が良い。ただ単に葉をまとめて、針金でグルグル巻きにしただけだ。
考えてみれば、家にある箒はみなプラスチックの繊維を束ねたもので、スーパーで買ったものだ。それもかなりの安物だからきっと中国製か何かだろう。でよくよく考えてみれば、もともとこのプラスチックは、サウジアラビアかどこかの国で産出した石油を精製し、それからプラスチックの原材料をつくり出し、それがはるか中国かどこかの工場にもちこまれ、箒という製品になり、そしてまた海を渡ってヨーロッパにたどり着き、輸入業者や問屋などの倉庫を渡り歩き、スーパーの店頭に並べられ、自分の家に辿りついたもので、とんでもないくらいの空間移動と時間の経過を経たものだ。
庭にある棕櫚の葉を切ってグルリと針金でまいてできた0km箒と、気の遠くなるような過程を経てできた10000km箒、その違いをよくよく考えれば、これがグロバリーゼーションということなのであって、どう考えても「健全」とは思えない現代の営みだ。ただ単に、最終的な消費者価格が安いからと、それが当たり前になってしまっているけれども、日常的に使う箒までもが、こんな馬鹿げた、大げさな生産活動、経済活動の中に組み込まれてしまっているのは改めて驚きだ。何も全て利便性や経済性を犠牲にしようとは言わない。でも身近にあることで、可能なことからなるべく自分の手から生まれたもので生活をするようにしようと思う。それがとりも直さず、いつの間にか知らない世界で生きている自分を自分の世界に呼び戻すことだと思うから。
一生懸命畑の野菜作りと棕櫚の葉で、箒作りに励む事にしよう。さて、そろそろ鶏でも飼う事にしようか。


















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# by kimiyasuII | 2018-07-13 00:11 | Comments(0)
2018 07 09 さじ加減
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オウム事件関係の死刑が執行された。死刑というのは、執行されるまでは刑に服していないような状態なので、判決から執行までの間は勾留ということになるのだろう。それにしても、こうやって執行されるとニュースで知らされる。一応法務大臣が刑の執行命令を出す事になっているけれども、どう考えても法務大臣がある日突然、そうだ執行しようと思いついて、命令が出されるとは思わない。一体何処で誰がどんな基準を元に刑が執行されるのか全く知らされていないし、ブラックボックスの状態にある。民主主義というのは、基本的に透明性が要件とされると思うけれども、この点に関しては何となくブラックボックスのままの状態に、みんなの無言の同意があるような気がする。刑とは言え、人を殺すという行為が、民俗学的に言えば「闇」「穢れ」に属しているからなのかもしれない。でも、やはり主権が国民に存在する国である以上は、きちんと見ないといけない、どのような判断によって刑が執行されるのか知っていなければならないように思う。それは単なる偶然とは思えないからだ。現政権のみが戦後の長い政府の歴史の中で、4度にも渡って、二桁の死刑執行を行っているというのは。どんな理由があるのかわからないけれども、ある個人の恣意的な判断によって、さじ加減によって死刑という極刑が執行されるとしたらそれはやはり民主主義の、法治国家としての必要最低限の要件を満たしていないと言わざるを得ない。
「人権」という概念から出発している現代ヨーロッパでは基本的に死刑はありえない。個人的にも、死刑という人権概念から真っ向から対立する制度には反対する。例えそれが、オーム事件のような被害者の方々にとっては不条理意外の何ものでもなく、死刑を持ってしても、償いにはならないものでありせめて死刑をもってして償って欲しいという感情は痛い程分かるけれども。生と死の境界線は絶対的なもので、そこを越える事はいかなる理由があっても、国の名においてはするべき事ではない。
殺人という行為が死刑に値する程の「悪」であるのと同じように死刑という罰は国による殺人であって、それ自体は「悪」であることに間違いない。その点は「戦争」と全く同じだ。様々な歴史的な背景や国民感情など、今の日本では死刑制度はかなりの割合で支持されている。しばらくは日本から死刑制度が無くなる事はないと思う。だからこそ、その執行に関しては、誰もが同意できる「合理的な」透明性が要求される。感情的に知りたく無いという気持ちを乗り越えなければ、死刑制度そのものが感情的な補償に過ぎないものになってしまう。
















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# by kimiyasuII | 2018-07-09 22:32 | Comments(0)
2018 07 06 甘えん坊
一週間の海のバカンスに行ったスタッフから息子と撮った写真が送られてきた。トスカーナの海からだ。どこかで見た事があるイメージだと思いサーバーの中を探した。
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もう半世紀以上前に三保の松原で、母親と撮った写真が出て来た。
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50年という長い年月の違い、イタリアと日本という場所の違いがあるのにそこに写されている「イメージ」は全く同じもので、それは甘えん坊で母親べったりの息子と母親。そして、写真には写っていないけれども、この写真を撮った、シャッターを切った父親がこちら側に居る。同じイメージの瞬間にシャッターを切った父親の眼差しはやはり同じものだった。この二枚の写真に写し込まれているのは、家族の関係、両親とその子供という家族の関係以外のなにものでもなくて、それは時間や地域、人種を越えて普遍的に存在するものなのだろう。
この二枚の写真を見ていて改めて「写真の力」に驚いてしまった。単なる対象の光を写しとるだけの道具にしか過ぎない写真が、人間存在の本質の部分をも写し込んでいることに。

ここ最近の新聞に幼児虐待のニュースがあとを断たない。両親に殺されて行くまだ何も分からない、抵抗もできない子供の事を思うと、心が引き裂かれる思いがする。そして子供を殺す両親を思うと、怒りを通り越し、個人的な憎しみが湧く。
ひょっとしたら統計的には、幼児虐待は今日はじまったわけではなく、ずっと昔からあったのかもしれない。それでも昨今の様々な犯罪の形態を見ていると、それらと無関係ではなく「現代」特有の現象のような気がしてならない。その現代というのは、情報機器の飛躍的な進歩によるリアルとバーチャル世界の境界の喪失、溝を埋める事ができないほどに格差の広まってしまった社会。三保の松原で父親がこの写真を撮った時には、半世紀後の社会がこんなになるとは想像もしていなかった。社会はどんどん豊かになり誰もがその豊かさを享受できる社会に向かっていると思っていた。一体、この半世紀の時間の経過の中、どこで何が狂ってしまったのだろうか。そして誰がそのような狂った方向に今の社会を導いていったのだろうか。大きな歴史の誤りは過ぎてみれば、誰もが何故こんな事に、と思うのだけれども、その経過の渦中にいれば全く何が起きているか気付かない。そればかりか、その大きな誤りの一翼を担ってしまうことがしばしばだ。
ひょっとしたら現代は、あと数百年もすれば何故あんな時代があったのだろうかと思うような、そのような大きな誤りを犯している時代なのかもしれない。そしてその犠牲になっているのは、純真無垢な殺されていく子供たちなのかもしれない。幼児殺しを精神の異常な犯罪者の仕業とするのは簡単だけれども、その前に、知らない間にそのような共同体を作りだしている一員として、本当に「幼児殺し」の一翼を担っていないのか、考えてみるのもこんな事件の記事を読んだ後にしなければならない事だと思う。













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# by kimiyasuII | 2018-07-05 17:19 | Comments(0)
2018 06 28 VILLA PIZZO

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SD-15 70mmF2.8













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# by kimiyasuII | 2018-06-29 05:23 | Comments(0)
2018 06 27 モンテローザ 今年ももう半分お仕舞い

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SD-15 70mmF2.8












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# by kimiyasuII | 2018-06-28 04:19 | Comments(0)
2018 06 21 たいさんぼく
昨年末から住み出したこの家の南には10mは軽く超える大きな泰山木があって、心地よい木陰の庭をつくり出しているのだけれども、先日真っ白な莟をいくつか見つけたと思ったら、今日、余りに上品な大きな白い花を咲かせているのに気がついた。タイサンボクなどというと何となく中国のイメージで、オリジナルは中国かと思いきや、調べてみればアメリカの花という事らしい。大きな花はどうも艶やか過ぎて好きくない、というのが我思うところであったのに、この花の上品な白肌は、立派や派手を遥かに乗り越えて、気品を備えている。
昨年末から住み出した家の庭にある沢山の未知の草木が咲き誇り、この泰山木が最後に残っていたけれども、締めくくるのに相応しい華を見せてくれた。来年からもこの華が咲くのを待つ事になるのだろう。

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# by kimiyasuII | 2018-06-20 05:10 | Comments(4)
2018 06 12 米朝会談
Vedo Laura arrivare in bicicletta sulla strada.
"Ciao, Kimi. Come state?"
"Bene,Da tanto tempo non ci vediamo. voi?"
"Bene bene.Che bello, tuo cane. Come si chiama?"
"Leo, sono contentissimo di averlo"
"Lo so, il cane fa tanta compagnia."
"No, non fa compagnia, è la vita."
"Hai ragione."
"Lavoro?"
"Sono in crisi, ho scelto il mestiere scomparire. Come sai, tutti comprano i mobili di Ikea."
"Eh, si. Sono unico che ha deciso escludere dalla casa i mobili di Ikea. Sapevi che abbiamo cambiato la casa?"
"Si, dove?"
"A Blevio. Perche non venite a trovarci. E' vicinissimo."
"Sii, se a Blevio, possiamo venire con la bici"
"Ok, vi aspettiamo. Ci sentiamo, ciao ciao"
"Ciao"

歩いていると向こうから自転車に乗ったラウラがやってきた。
L「チャオ、元気?」
K「チャオ、ラウラ、元気元気。久しぶりだけど、そっちは?」
L「元気にやってる。なんて可愛い犬なの、名前は」
K「レオ、本当に犬を飼って良かった。」
L「分かってる、犬はいつも一緒に居てくれる。」
K「一緒に居てくれるなんてもんじゃない、生活そのもの。」
L「たしかに」
K「仕事は」
L「結構大変。仕事を間違えちゃったみたい。ご存知のとおりみんなイケアの家具を買うから。古い家具修理する人なんてもういない。」
K「きっと世界中で唯一自分くらいだ、イケアの家具を家から排除するって決めたのは。ところで家変わったの知ってた。」
L「知ってたけど、何処なの」
K「ブレーヴィオ、今度は近いからいつでも遊びに来なよ」
L「行くよ、ブレーヴィオなら自転車で行けるじゃん」
K「待ってるから。電話して、チャオチャオ」
L「チャオ」

イタリア人ってどんな生活をしていて何を考えているのだろうかというと、こんな感じだ。道で久しぶりに会った古い家具の修復をしているラウラと交わした会話から何となく伝わると思う。
日本語には、男、女言葉があるし、尊敬語なんかもあって、日本語訳にするとニアンスが変わってしまいどうもちょっと違うのだけれども、これはどうしようもない。イタリア語は、日本語と比べると随分「乾いて」いる。基本的に、主語、動詞、目的語と、文章の構造がしっかりしていないと言葉にならないから、きちんと話さなければならないし、まず言葉によって上下、男女、老若の関係を固定しまうようなこともないから、自然に言葉のキャッチボールできる。そんな「言語」の違いはあるにしても、イタリア人の生活の「空気」はこんな風だ。
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SIGMA SD-15 70mmF2.8

突如,新幹線で同席した人が刃物で襲ってくる、なんて事件が起きるとそれはイタリアでは起きにくいんじゃないかと思う。嫉妬に逆上したオットが浮気していた妻をホウムってしまうなんて事件は良くあるけれども。おそらく新幹線の犯人になかったのはラウラとの会話のような「日常」で、それは一見「簡単」のことであるようでも、思いのほか難しい。弱肉強食の「グローバル市場主義」や、官僚、大企業を頂点にする「学歴、出世主義」が、家族や社会からこぼれ落ちてしまった人には随分冷たい社会になるのは当然で、それはどんどん加速している。

防犯カメラをとりつけたり荷物検査をしてもそれが対処療法である以上、こんな事件は減らない。様々な法律や制度をもうけて弱者が救い上げられるような社会の「仕組み」を作っていかないと。そして何より「意識」が変わらないと。

しばしば起きるアメリカの銃の乱射事件を、まるで対岸の火事のように見ているけれども、銃はあくまで手段であり、原因は共同体の仕組みと価値観そのものにある。こんな事件が起きると日本にも全く同じ構図を重ね合わせることができる。













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# by kimiyasuII | 2018-06-11 23:55 | Comments(2)
2018 06 04 白い椅子,2脚

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# by kimiyasuII | 2018-06-05 04:57 | Comments(0)
2018 06 03 日曜日
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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4
















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# by kimiyasuII | 2018-06-04 05:08 | Comments(0)
2018 05 22 レオ、一歳八ヶ月
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SIGMA SD-15 70mm F2.8














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# by kimiyasuII | 2018-05-23 01:12 | Comments(0)
2018 05 20 赤薔薇
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SIGMA SD-15 70mmF2.8











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# by kimiyasuII | 2018-05-21 23:39 | Comments(0)
2018 05 17 今宵の湖

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4















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# by kimiyasuII | 2018-05-18 04:55 | Comments(0)
2018 05 17 今朝の湖

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4












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# by kimiyasuII | 2018-05-17 14:07 | Comments(0)
2018 05 16 奉仕
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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

イタリアでも最近は,小売店は姿を消して,スーパーマーケットが「支配的」となっている。それもイタリア,フランスやドイツの巨大なチェーン店がしのぎを削って市場獲得戦を植民地支配のようにくりひろげている。でもうちは,小さなディスカウントスーパーにしか行かない。もちろん最初は「安いから」という理由だったのだけれども最近はどうも大手スーパーもかなり値段を下げているから、必ずしも「安い」だけが理由じゃない。狭いのだ。店が小さいから,商品がどこにあるかも頭のなかに入っているから広い後楽園球場のような店内を探しまわらなくても良いし,入ってすぐの棚で買い忘れたものを、最後まで行ってまた戻ってきて買うみたいな馬鹿なことをしなくても良い。商品の種類も圧倒的に少ないから,どれが良いだろうとか,こちらは少し高いけど美味しい,とか余分なことを迷うひつようも無い。ましてや、値段がいくらかなんて事も気にせずに,どかどかと欲しいものを欲しいだけ,カートに投げ込める。ディスカウントスーパーだからといって,何も不味いものを並べているわけでも無いし,精々、商標が違うだけで大手スーパーと同じ商品が並んでいる。でも、このディスカウントスーパーは、圧倒的に「移民」「(年金暮らしの)老人」が多い。ウクライナ人、フィリピン人,インド人,アルバニア人,アフリカ人,ジプシー,とまるで発展途上国の集会場のような様相を呈している。自分は一応,G7にも入る「先進日本国人」だから、こういう雰囲気には感情的にはちょっと馴染めないのだけれども、それって「人種差別じゃん」という理性が働いて,最近では「好感」にと変わりつつある。でも、レジで妙に図々しいルーマニア人なんかに出くわすと,「おいコラ」と思ったりする。(イタリア人のかなり手強いお歳を召したご夫人もたまにでくわしますが。)

友人との雑談の中で,どこのスーパーで買い物をするの,と聞かれたりすると、ちょっと前まではディスカウントと声を大にして答えるのは気恥ずかしく,気が引けたからなんとなく誤摩化して答えていたけれども、最近は声を大にしてディスカウントと答えるようにしている。それは自分は「消費主義、コマーシャリズム,グローバリズムの宮殿」のような「大手スーパー」に行く「資本主義の餌食となった大衆」とは一線を画しているという「おごり」があるからだ。

それでも、家人はいつも、ネット上で「特別奉仕品」を探りまくり、ディスカウントのさらに上をいく商品を、買い物リストにアップして数量3とか5と書いて,丸印をグルグルとつけてくる。まあ店が狭いからとか、人種差別がいけないとか,反グローバリズムとか色んな言い訳はあとから付けられるけども、結局は安いからディスカウントショップを愛用しているに過ぎない。でもスーパーで買うのは,ほとんどが加工食料品で、チーズや肉などの生鮮食料品は,まだイタリアには残っている公設市場で買い物をする。何となく,生鮮食料品は,安いだけではない市場のほうが美味しい気がするし、もう30年も通っている店もあり「お得意さん」として店の人と話しをする快感があるからだ。
















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# by kimiyasuII | 2018-05-17 04:33 | Comments(0)
2018 05 13 写真

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

最近どうも写真がしっくり来ないので,作為のない写真を撮ろうと思うけれども,写真にならない。それは「作為のない」という「強い作為がある」からなのかもしれない。だからきっと作為のある写真を撮ろうと思えば,作為のない写真が撮れるだろう、か。


















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# by kimiyasuII | 2018-05-14 01:40 | Comments(0)
2018 05 12 磨く
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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4

銅鍋を磨いた。やればやるほど奇麗になる銅鍋を磨くのはとても楽しい。この辺りで止めとかないと,今日一日が潰れてしまう。冷たいステンレスの鍋をいくら磨いてもこんな風に楽しくはならない。台所から、家の中からこういう楽しいモノが姿を消し出したのは一体いつからだろう。



















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# by kimiyasuII | 2018-05-13 04:10 | Comments(0)
2018 05 08 不安定な天気の続く春

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# by kimiyasuII | 2018-05-09 04:38 | Comments(0)
2018 05 07 天使の舞い降りる夕暮れ
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いろんな事の起源というか,根元のところがどうも気になる。犬を飼い出してから,犬の前足を見ると「可愛い」と感じる。家人も同じように「可愛い」と感じると言う。一体どこからこの可愛いという感情は起きるのか,不思議な気がする。小型犬だから胸に抱き上げると,前足でしがみつくような格好をして、その姿に打ちのめされてしまう。これはきっと「赤ちゃん」を抱き上げたときの感情と同じだ。だから哺乳類の人間には,長い時間に渡って子供を守らなければならない本能が、「可愛い」という感情を引き起こすメカニズムを備えさせたような気がする。可愛い感情=保護すべきという理性が表裏一体のように結びついているに違い無い。

結晶をみると見事な対称形をしている。自然がまるで結晶のように理路整然としているならば、宇宙は全て対称的にできているはずだ。ところが自然は理路整然どころか、多様極まりなくて,だから人間だって,この世にできてしまった。こんな事は,ノーベル賞をもらうような物理学者が考えていることだけれども、宇宙のはじまりに、宇宙の起源にこの多様性の源はあって、いってみれば人間はこの宇宙の始まりにあった「何物か」が原因で,今存在していることになる。エネルギーがとてつもなく高かった,物質以前の宇宙の状態の中に,我々の「起源」があったと思うと,何か楽しいような、不思議なような、怖いような気がする。とても生きている間には,どんなに天才的な物理学者もこの宇宙の始源にあった「何物か」を見付ける事はできそうも無いから,取りあえずそれを「神」もしくは「愛」と呼んでおく事にしよう。宇宙のはじまりに、飛んでもないエネルギーをもった、とんでもない状態があってそこから人間が生まれたと思うよりも,そこに「愛」があって人間が生まれたと思った方が,こころが明るくなる。そうすれば、犬の前足が可愛いと思うことも何となく納得できる。















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# by kimiyasuII | 2018-05-08 02:19 | Comments(0)
2018 05 06 村の道で見付けた小粋な家

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# by kimiyasuII | 2018-05-06 16:35 | Comments(0)
2018 05 06 芸術的な水栓

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# by kimiyasuII | 2018-05-06 16:23 | Comments(3)
2018 05 05 テラスの梯子

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# by kimiyasuII | 2018-05-06 04:27 | Comments(0)
2018 05 05 透視画法的な小道 ブレービオ

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# by kimiyasuII | 2018-05-06 04:23 | Comments(0)
2018 05 01 尖った屋根の家

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# by kimiyasuII | 2018-05-02 06:50 | Comments(0)
2018 05 01 部屋


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# by kimiyasuII | 2018-05-02 02:05 | Comments(0)
2018 05 01 好きな家

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# by kimiyasuII | 2018-05-02 01:41 | Comments(0)
2018 05 01 自転車もしくは階段

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# by kimiyasuII | 2018-05-02 01:37 | Comments(0)
2018 04 30 鈴蘭

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# by kimiyasuII | 2018-04-30 14:42 | Comments(0)
2018 04 23 微笑む


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朝,車でコモの街にあるスタジオに行くのだけれども、ちょっと早い時間だと街に入る前に少し車の列ができる。だから車はのろのろ進んで右側にあるリサイクルショップの大きなガラス越しに中にあるものを車から物色する。何やら奥にちょっと魅力的な絵がかけてある。だからと言って朝から車をわざわざ停めて中に入るようなことは無い。それから一週間も経ってちょうど自転車でリサイクルショップの前を通ったので、ああそう言えば「絵」があったなと思って,覗いてみることにした。こんな時は,まず決めておく。もしあの絵がとても魅力的で,この金額なら買う事にしようと。あれこれ迷うのは,どうも好きじゃないし、自分が好きならそれで良いじゃないか,お店の人に惑わされるのは癪にさわる。

一目みて「欲しい」と思った。こんな事は久しぶりだ。必要なものが欲しいのと違って,ただただ欲しいから欲しいという所有の「欲望」に駆り立てられたのは。もういくらなら買おうと思っていた、店に入る前の冷静な気持ちはどこかに吹っ飛んでしまっている。でもこんな欲望を店の人に感じられるのは「気恥ずかしい」から、あたかもあまり興味がないかのようにすぐに視線を絵から外して,店の中に他に何かないかなと見回す振りをする。でも本当はこの時は,胸がもう張り裂けるほどドキドキしていて、他のものは全く目に入らない。こんな素晴らしい絵はきっととてつもなく高いだろう,とか、いやいやたかがリサイクルショップ,店の人は価値も分かっちゃあいない。一周店をぐるりと見回したあとさりげなく「いくらですか。」と聞く。衝撃的な答えが返ってくる。

昨年末に引っ越した新しい家の玄関の小さなホールはちょっと美術館仕立ての空間にして、そこには照明を工夫した、日本間で言えば「床の間」のような装置を作ったのだけれども、そこにあった著名な彫刻家の作品は、別のところにどけられて,この無名のおそらく1800年代の絵が、ホールの主人公になった。

じっと目を見つめると,友達が指差している本から目をそらして,こちらを見て少女は微笑む。


追記 専門家に見せたわけじゃないけれども、この絵は1800年代中前の絵じゃないかいと思う。背景に葡萄が描かれているから、おそらく時期は秋のはじまり、9月で新学期がはじまる時期だ。おそらくこの二人は姉妹で、下の子は小学校に新入学だ。三年生のお姉さんが、妹に教科書を開いて指差して何かを教えようとしている。ちょっとお茶目な妹はお姉さんと同じように学校に行くのが嬉しくてしかたがない。かなり上流階級の家族、お母さんが、下の子の入学記念に絵を描いてもらおうと画家に頼んだ。それからもう200年近くが経っている。





















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# by kimiyasuII | 2018-04-24 14:26 | Comments(0)
2018 04 20 木蓮

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# by kimiyasuII | 2018-04-21 11:07 | Comments(3)
2018 04 14 欄干

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# by kimiyasuII | 2018-04-15 05:00 | Comments(0)