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イタリア

コモ湖畔の書斎から2 dalla finestra lariana2

2019 09 23 プロ
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5センチくらいの引き出しが18段、それぞれの引き出しの中は無数に小割がされていて、かつてここには無数の「活字」が収められていた。そこからひとつづつ職人が選びだして並べていく。すると文章ができていく。それは何かの本だったのかもしれない。一体その本にはどんな事が書かれていたのだろうか。
技術の進歩のおかげで活版印刷などという手間のかかる面倒な作業は、この地球上から姿を消してしまった。一緒に活字の専門家も。

その亡骸を、ちょっと前に手に入れて放ってあったけれども、ようやく涼しくなりだした日曜日に修復した。何をいれようか。





















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# by kimiyasuII | 2018-09-24 13:12 | Comments(0)
2018 09 22 巻式衛生紙
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手を入れずに引越してしまった洗面トイレをようやく直し始めた。壁に飾るいい写真が見つからない。トイレットペーパーの写真でも飾ることにして改めて写真を撮った。そう言えば、昔はロールペーパーなどなくて、衛生紙という、ゴソゴソの四角い再生紙が竹でできた紙入れにあって便器の横に置いてあった。
























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# by kimiyasuII | 2018-09-22 21:17 | Comments(0)
2018 09 17 誕生日
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犬を飼い出して、1年と9ヶ月、犬は2歳になった。
子供もなく、ずっと夫婦二人の生活だったから、他の「生き物」が24時間家にいるという体験はとても新鮮で、本当に良かったと思う。典型的な犬を馬鹿可愛がるちょっと頭のおかしい初老夫婦というわけだ。
人が来ると、犬のレオは、大歓迎して興奮する。いつもなら寝る時間なのに、お客さまが帰る深夜まで、眠そうな目を必死であけて起きている。
朝は、ご飯はまだなのと、起こしにくるし、その後は、散歩に行こうと静かに待っている。
家のテラスから見える、救急車や見慣れない車に、湖を行く船に、空を飛び交うツバメを追いかけて、吠えまくる。
帰国して一週間も家を留守にすれば帰ってきたときの喜びようといったら、目も当てられない。夫婦で口争いをすれば、あっちに行ってじっとして、ショボンとしている。(本当は、また始まった、何馬鹿なことで喧嘩なんかするんだよう、と思って呆れているのかもしれないけれども。)
この鼻の潰れたなんとなく情けない顔をしているから、レオを連れて散歩していれば見知らぬ人が声をかけて来る。イタリア人がどんなに外交的だからと言っても、犬が居なけりゃこんなに簡単に声をかけたりはしない。同じ犬種でも連れていようならもう旧知の間柄のように会話が弾む。自分のような「移民」にとっては、犬はここに住み着いていることの証なので、変な目で見られることもない。
なんか最近は、「ちょっと待ってて」とか「散歩に行こう」とか、そんな言葉は分かるような挙動をする。
日本と違って、イタリアではほとんどのオフィスやレストラン、時にはスーパーマーケットも犬は立ち入り許可だから、不自由な思いもすることもそんなに無くてどこにでもつれていける。それでも一昨日は、昔の隣人パトリツィアの家に連れて行くと、ちょっと目を離した隙にソファーにオシッコをしてしまった。参ったけども仕方がない。
つくづく、犬の生活を見ていると「シンプル」だと思う。まあ時には気の悪い犬には吠えてかかることもあるけれども、それは軽い喧嘩程度で「戦争」はしない。餌の肉を蓄えておこうなどという蓄財の強欲な気持ちもない。人が「可愛い犬」と言ったからといって有頂天になって調子にのることもない。眠い時には寝る。奇麗な服や首輪が欲しいなんてことも思わない。人より良い家に住みたいなんても思わないし、寒いの暑いのだと文句も言わない。日本語には「犬畜生」などと言う蔑む言葉があるけれども、こうして一緒にくらしてみれば犬は悟りを開いた「仏様」のような気がする。
レオと一緒にいれば人は何て「くだらない事」で怒ったり泣いたり、心配したりして、全く生まれながらにして心の病んだ動物だと思う。
自分もそうだったから分かるけれども、犬を飼ったことが無い人は、こんな話は全くチンプンカンプンの話で、犬ごときに何を戯言を言っているのだ、と思われるだろう。餌を夢中でむさぼる背中姿が可愛くてしかたがなく思わず笑みがこぼれるのだから、、。































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# by kimiyasuII | 2018-09-17 00:00 | Comments(0)
2018 09 05 コモ湖東岸,旧街道レジェ道をのぞむ

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4












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# by kimiyasuII | 2018-09-06 05:31 | Comments(0)
2018 09 04 CAZZANOREの径
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# by kimiyasuII | 2018-09-04 01:41 | Comments(0)
2018 09 04 肌寒い

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# by kimiyasuII | 2018-09-04 01:36 | Comments(2)
2018 08 25 遊覧3 船着き場

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# by kimiyasuII | 2018-08-26 06:09 | Comments(0)
2018 08 25 遊覧2

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# by kimiyasuII | 2018-08-26 06:01 | Comments(0)
2018 08 25 遊覧

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# by kimiyasuII | 2018-08-26 05:59 | Comments(0)
2018 08 25 日没

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# by kimiyasuII | 2018-08-26 05:56 | Comments(0)
2018 08 22 F1

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今更F1種がどうのこうのという議論をするつもりは無い。このトマトは、事務所のスタッフキアラの家で先祖代々,とはいえ大した代々ではないだろうけれども、栽培していた南イタリアカラブリア州のトマトがお爺さんの代の時に途絶えてしまったので、アルゼンチンにこのトマトの種をもって移住したお爺さんの兄弟からイタリアに取り寄せて復活させて、今日でも作っているトマトで、その苗木を貰って家で作ったものだ。家庭菜園で作った野菜はなんでも美味しいのだけれども、このトマトは果肉が滑らかで肉肉しく、野菜トマトとは思えないような味と食感があり、ちょっと唸ってしまう。もちろんF1ではなく固定種なので種をとっておけば来年も作ることができる。


















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# by kimiyasuII | 2018-08-23 04:48 | Comments(0)
2018 08 17 サボテン
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村を散歩していると,日当りの良い縁先にサボテンの鉢が沢山並べられていて、どこか懐かしいような、それは何か昭和の香りを放っていた。















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# by kimiyasuII | 2018-08-17 14:53 | Comments(3)
2018 08 16 たいさんぼくの実

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# by kimiyasuII | 2018-08-17 04:47 | Comments(0)
2018 08 15 もう1枚
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# by kimiyasuII | 2018-08-16 05:10 | Comments(0)
2018 08 15 ferragosto, お盆

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昨日橋が落ちた。ジェノバの街を走る高速道路のコンクリートの吊り橋が突如崩落して、37人の方が亡くなった。ご冥福を祈ります。

今日は,天気が良くて気温も27度ほどで気持ちの良い一日だった。西向きのテラス,30度を越すとちょっと居るには暑すぎるのだけれども,この程度の温度で,風があれば気持ちが良い。テーブルの上に白い布を張って日差しをよけた。














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# by kimiyasuII | 2018-08-16 04:56 | Comments(0)
2018 08 14 散歩道 MEZZOVICO
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# by kimiyasuII | 2018-08-15 04:36 | Comments(0)
2018 08 14 散歩道 SORTO 2

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# by kimiyasuII | 2018-08-15 04:01 | Comments(0)
2018 08 13 脱規範

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何もテーブルには必ずしも脚が4本なければいけない訳じゃないから1本にして,その脚が必ずしも真ん中についていなければいけないわけじゃあないから端っこにつけて、水平,垂直材の断面が同じでも良いじゃないかとまるで一筆書きのような脚にして、樅の木で作ってみたら、愛犬レオが見向きもしないで駆け抜けて行った。




















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# by kimiyasuII | 2018-08-14 04:49 | Comments(0)
2018 08 13 散歩道 MEZZOVICO
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# by kimiyasuII | 2018-08-14 04:34 | Comments(0)
2018 08 13 散歩道 SORTO
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# by kimiyasuII | 2018-08-14 04:20 | Comments(0)
2018 08 11 収穫
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どこかのネット新聞の論評に「百姓根性」という言葉が使われていたので,「おいコラ」とメールをしてやった、ら、使われてないメールアドレスだと返事がきた。全く,卑怯な手を使う日本の言論界はなっとらん、とまたまた腹がたったけれどもどうしようもない。昨年暮れに越した新居で初めての「露地野菜」が穫れ出した。まったく高貴で楽しく,こんな生産的なプロフェッションを,2018年になっても「百姓根性」と蔑むのはけしからん。それにしても、自家菜園で穫れる野菜はうまい。
















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# by kimiyasuII | 2018-08-12 01:41 | Comments(3)
2018 08 08 ギボウシ


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日本語で何となく分かっている、よく分からない言葉は,イタリア語,外国語だと、さっぱり分からなくなってしまうということがしばしばある。だから色んな文章を読んで,聞いて,ようやくその単語の意味が,明確になる。とりわけその日本語が,西洋の言葉から翻訳された場合には,その傾向が強い。

例えば,主体と客体などという言葉もそれだ。イタリア語ではsoggettoとoggettoになる。ネットの翻訳で日本語からイタリア語に直せばこうでてくる。ところがイタリア語から日本語に直そうとするとsoggettoは主語、主題などと出て来るし,oggettoはオブジェ、モノとなる。だからどうも分からない。

子供は生まれたばかりは100%母親に依存する。また母親も子供をまるで自分の一部分であるかのように保護しようとする。このような状態は,母親という「主体」は、子供をまるで自分の所有するモノのように、オブジェ、「客体」として扱っていると言ってもよい。時間が経つにつれて子供は、主体性を示してくる。分かり易く言えば,母親の思う通りにならなくなって来ると言う事だ。泣いたり、悪戯をしたり,我が侭を言ったりと,子供は成長するに伴って,自分の意志に基づいて行動するようになってくる。

成長というのはだから生まれたばかりの「客体的」な存在から、「主体的」な存在への移行、変遷の過程と言う事ができる。ここで、もし母親や父親、親戚などの他者が子供の主体化の要請,希求を阻止するとどうなるのだろうか。阻止された子供は、主体的な個人へと移行できずに、「客体」のまま残ることになる。当然、子供のこころの中では「主体化」への要請のエネルギーが蓄えられることになる。このような実現されないエネルギーは、負のエネルギーであり、子供の心の中に何らかの「歪み」を作りだすことになる。母親にしてみればもともと自分の体内にあった、自分の一部であった「子供」が自分の手を離れて、他者となっていくことはまるで自分の身体の一部を切り取られるような痛みをともない、子供をいつまでも自分の手元に、自分の所有する「客体」として留まらせようとするのは当然の成り行きとも言える。だからそのような感情的な痛みは「知性」によって乗り越え、子供を一人の「主体的」な人格として認めていく第二の産みの苦しみを味合わなければならない。実際には、このような痛みを避けるために、自分の子供をいつまでも自分の所有物として客体的な存在に引き止めてしまう母親が、引き止めようとする母親がかなりの割合で存在する。母との関係に悩む、苦しむ多くの女性がいるのはこのためだ。拒食症の原因の多くが母親との関係にあることは多くの心理学者の認めるところだ。

個人でなく、社会がこのような主体化を阻害するような場合にはどうなるだろうか。この場合人々は社会、文化、歴史、それは共同体と言ってもよいが、その所有物、「客体」とならざるを得なくなる。その客体である人々は、それが自分の子供を完全に所有しようとする母親に育てられる子供と同じように、心の中にある種の「歪み」を作りだすことになる。それは時には無差別の殺人や、不正な公共資金の流用などと言った昨今紙面を賑わしている様々な病的な事件の原因となっている。共同体である以上、何らかの規則により、教育により、その共同体のメンバーに秩序をもたらすことは必要である。ただ、それがほとんど「支配」と呼んでよいほどに主体化の阻害をするような場合には、こころの歪となり、「事件」を引き起こす。

具体的に社会が個人の主体化を阻止するとはどういうことだろうか。その最も顕著で誰もそうは認識しない例に、東京大学を頂点とする学歴主義がある。そしてその東京大学の向こう側に待っているのは「官僚」という職場だ。子供のころから、物心ついたころから、日本の社会は全ての子供に「勉強」を強要する。勉強をせよと法律に書いてある訳ではないけれども、通信簿に成績をつけられ、偏差値を問題にされともかく少しでも良い学校を目指して、学校だけでなく塾にまで通い、東京大学を目指す。まるでそれが正義であり、それが幸福をもたらすものであるかのように。日本中の同じ年の子に、成績の順番を全員につけ、上位から頭の良い100人の子は東大の理3に行くことになる。この100人の中には、本当は農業を営みたい個性の子はいないのだろうか。ひょっとしたら楽器を演奏することに自分の生きがいを感じる子はいないのだろうか。どうして「成績が良い」子は医者という職業に就かなければならないのだろうか。最近はあまり聞かれなくなってしまったが個性をのばす教育が言われていたけれども、もし本当に子供たちの個性を伸ばそうと思えば「学歴官僚主義」という共同体が生まれた途端に無意識のうちに人々に課している非主体化の価値観を根底から覆していかなければ、人々は共同体、国家の客体にとどまることになる。塾のない、三ヶ月の長い夏休みに入った子供たちの歓声を聞いていると、成績によってのみ評価されてしまい、それが一生ついて回る共同体のありかたが、どれほど異常かつよく感じてしまう。

このように考えてくるとイタリア語のSOGGETTOとOGGETTO、主体と客体という概念は,かなり明確になり、はじめて会話の中で自由に使える二つの言葉となる。




















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# by kimiyasuII | 2018-08-09 05:00 | Comments(0)
2018 07 31 日常、1(ワン)
一昨日、日曜日は幸せな一日だった。朝五時頃目が覚め、階下におりていく。水を飲み、犬の朝ご飯を解凍のために冷凍庫から出す。ネット新聞でも見ようとコンピューターの電源を入れると、犬のレオが起きてきた。6時には朝ご飯んが食べれるのを知っているから、ちょっとぐらい眠くてもご主人様の音がすれば、目を覚ましてやって来る。大きなあくびをして、背伸びをする。そして「朝ご飯は」と言いたそうな目でこちらを見る。キッチンに行きまだ十二分に解凍していない生肉をまな板の上で小さくして溶けるのをまつ。その間に、こちらも朝ご飯の用意をする。とは言っても、イタリア式の超簡単な、パンのかけらと、冷たいミルクと、エスプレッソコーヒーだけだからキッチンに立ったまま、食べてしまう。待ちきれなくなったレオに80gの生肉をあげれば、10秒ほどで平らげてしまう。そんなに急いで食べると消化に悪いぞ、なんていつも思うのだけれども、「もう無くなっちゃった」と言いたげな眼でこちらをちらりと見ると、名残り惜しそうに、いつまでもいつまでを皿をなめている。
用足しに外に出してあげると、菜園のほうに駆け抜けていく。さて、こちらは美味しいコーヒーでも飲もうかとテラスのベンチに腰掛けて、まだ明けて間もない下界の街を見る。今日は日曜日だから、仕事に行く車もなく、静かな何となく日曜日な朝が広がっている。天気は悪くないけれども、はるか彼方のモンテローザは雲に隠れて見えない。
用を足したレオはテラスに戻ってきて、鉄の手摺から頭を出して、下に見える動くものに吠え出す。ワンワン、ワンワンと。パグは吠えない犬、とものの本には書いてあるけど、レオは吠えまくる。これじゃあ、日曜の朝寝坊を決めた近所から小言を聞かされる。「レオッ」と叱って止めるようなら、とっくに吠えないようになってるからどうしようもない。そこで「レオ、散歩に行こう」ということこちらを向いて、「散歩に行くって?」てな顔をして吠えるのを止める。こいつ、本当に散歩って意味が分かるんじゃないかと、ちょっとうれしいような怖いような気持ちになる。今日は日曜日で時間もあるからゆっくり湖畔まで行ってこうようと、胸環をつけ鉄の門扉をあけて外に行く。バネの仕掛けられた呼び鈴がカランコロンと鳴る。
一度,家から出れば,そこは他の犬達のオシッコの楽園で,レオはあちらでクンクンこちらでクンクンとなかなか歩が進まない。
石の階段を100段も下りて行き国道を横切れば,そこからは湖畔の領域に入る。ここは立派なお屋敷が占めていて、小道の両側には高い石の壁が立ち上がる。石の階段をどんどん下りていく。向こうから、様子のおかしい決して若くはないカップルが上ってくる。こんな時間に変だなと思ったけれども、そういえば昨夜は湖畔の広場で村の催しがあったから、きっと深夜まで続いたロックの演奏の勢いで、明け方まで飲み続けて夜をあかしたのだろう。それにしても女の歩き方がどうもおかしい。と思っていると、人に吼えることがないレオが、バウバウと唸るように低い声で吼えている。よくよく見れば、女は麻薬でフラフラだ。犬には麻薬に冒された人間は正体不明の「不審動物」と写るのかと関心する。「放っておいて湖畔に行こう」と、ちょっと抵抗するレオを引っ張って湖まで降りて行く。
散歩から帰ったころには、家人も階下におりて朝食の用意をしている。レオのためのリンゴのヨーグルト和えも。またガツガツ、リンゴを食べるとレオは、さあ、吼えるぞ!と言わんばかりに庭に走り飛んで行く。今日は夕方から客人というか、事務所のスタッフが誕生祝いを兼ねて、家族みんなでやってくるから、ちょっとぐらいは料理の用意をしておこうということになる。さて、イタリア料理は、前菜、パスタの一皿目、肉魚の二皿目、デザートってのが正式な「構成」で、昨日から作るものは決めて買い物も済ましていた。前菜は事務所のスタッフが持ってくるというから、何も作らない。一皿目は先日ほかの客に評判の良かったスパゲッティにシチリア風のペースト。料理といってもこれも簡単で、アーモンドと菜園からとってきたバジリコとトマト、大蒜、オリーブオイルを一緒にミキサーにかけるだけだ。二皿目のメインも、ちょっと手抜きでローストビーフ。これも昨晩のうちに仕込んであったからもうできている。ちょっと、和風にするために、少し薄めたお醤油に生姜をたっぷりまぜてローストビーフに掛けようという算段だ。デザートも事務所のスタッフが持ってくるというけれども、インスタントに慣れてしまった皆に抜群に評判の良い本物のプリンを作ることにする。これももうお手の物で頭の中に分量やら手順がしっかり焼き付けられているから、手際良く作ってしまった。
それにしても、あいつレオは暑いのに庭を駈け抜けて吼えまくり続けている。道行く人をかぎつけると、入り口の門扉に行ってワンワン・ワンワン。道沿いのアプローチの斜路を駆け上ってワンワンワンワン。おい、黙れとそんなレオとたまに遊んで,庭の片付けやらしていればもうお昼になってしまう。
客人達が来るのは5時ごろだから、昼からも時間が少しあるから作りかけの日曜大工のサイドテーブルの製作を進める事にする。精々2センチ角ほどしかない木の棒材を、実でカクッと鋭角に繋ぎ合わせるディテールが、もう数日前から作ってみたくて仕方がなかった。まともな木工工具があるわけじゃあないから出来はかなりいい加減だけれども,何とか固定することができた。たっぷりつけたボンドが固まるのが楽しみだ。
そうこうしているうちに約束の5時からすでに30分くらいが過ぎている。「遅刻」などといきり立つのは決して国際標準じゃなくて,イタリアなら準備に忙しい招待主を慌てさせない為に30分くらい遅れてくるのが礼儀というものだ。その内,礼儀正しい客人の呼び鈴が鳴った。それからまた30分もしてもう一家族。4歳のエドと水鉄砲で遊んだり,客人に興奮しているレオを追いかけ回したりして最後に評判の良いプリンを皆で食すると瞬く間に10時を過ぎて,もう妊娠九ヶ月になる第2子を待つマルチェッラを駐車場まで見送って,平和で幸せな日曜日は過ぎて行った。

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EPSON R-D1x NOKTON40mmF1.4
鋭角にカクッと曲がった取っ手のついた日曜大工のサイドテーブルと礼にもらった二つのガラス瓶





















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# by kimiyasuII | 2018-07-31 23:08 | Comments(0)
2018 07 24 部屋 2

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# by kimiyasuII | 2018-07-25 05:18 | Comments(0)
2018 07 17 にっぽん旅行
日本に2週間程バカンス旅行に行った「イタリア人」スタッフの見た日本はこんなに奇麗な国だった。大満足して帰って来た。 世界中、こんな奇麗なところはそんなにあるわけじゃあない、と思う。大事にしたほうが良いと思う。
FOTO by Chiara Molteni
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# by kimiyasuII | 2018-07-18 16:14 | Comments(2)
2018 07 13 Km 0
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庭に棕櫚の木が、ある。それも一本や二本でなく、いろんなところに植わっている。この棕櫚、おそらく20世紀初め頃まで、地中海、南の海に憧れてコモ湖畔に数多く植えられたものが、ほとんど自然に繁殖していったものだろう。
どうも違和感がある。オークや栗や、広葉樹に混じって、棕櫚が突然あるのは。そこで、長い柄のついた葉を切る。
イタズラ半分に、その葉を割いて箒を作った。これがなかなか調子が良い。ただ単に葉をまとめて、針金でグルグル巻きにしただけだ。
考えてみれば、家にある箒はみなプラスチックの繊維を束ねたもので、スーパーで買ったものだ。それもかなりの安物だからきっと中国製か何かだろう。でよくよく考えてみれば、もともとこのプラスチックは、サウジアラビアかどこかの国で産出した石油を精製し、それからプラスチックの原材料をつくり出し、それがはるか中国かどこかの工場にもちこまれ、箒という製品になり、そしてまた海を渡ってヨーロッパにたどり着き、輸入業者や問屋などの倉庫を渡り歩き、スーパーの店頭に並べられ、自分の家に辿りついたもので、とんでもないくらいの空間移動と時間の経過を経たものだ。
庭にある棕櫚の葉を切ってグルリと針金でまいてできた0km箒と、気の遠くなるような過程を経てできた10000km箒、その違いをよくよく考えれば、これがグロバリーゼーションということなのであって、どう考えても「健全」とは思えない現代の営みだ。ただ単に、最終的な消費者価格が安いからと、それが当たり前になってしまっているけれども、日常的に使う箒までもが、こんな馬鹿げた、大げさな生産活動、経済活動の中に組み込まれてしまっているのは改めて驚きだ。何も全て利便性や経済性を犠牲にしようとは言わない。でも身近にあることで、可能なことからなるべく自分の手から生まれたもので生活をするようにしようと思う。それがとりも直さず、いつの間にか知らない世界で生きている自分を自分の世界に呼び戻すことだと思うから。
一生懸命畑の野菜作りと棕櫚の葉で、箒作りに励む事にしよう。さて、そろそろ鶏でも飼う事にしようか。


















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# by kimiyasuII | 2018-07-13 00:11 | Comments(0)
2018 07 09 さじ加減
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オウム事件関係の死刑が執行された。死刑というのは、執行されるまでは刑に服していないような状態なので、判決から執行までの間は勾留ということになるのだろう。それにしても、こうやって執行されるとニュースで知らされる。一応法務大臣が刑の執行命令を出す事になっているけれども、どう考えても法務大臣がある日突然、そうだ執行しようと思いついて、命令が出されるとは思わない。一体何処で誰がどんな基準を元に刑が執行されるのか全く知らされていないし、ブラックボックスの状態にある。民主主義というのは、基本的に透明性が要件とされると思うけれども、この点に関しては何となくブラックボックスのままの状態に、みんなの無言の同意があるような気がする。刑とは言え、人を殺すという行為が、民俗学的に言えば「闇」「穢れ」に属しているからなのかもしれない。でも、やはり主権が国民に存在する国である以上は、きちんと見ないといけない、どのような判断によって刑が執行されるのか知っていなければならないように思う。それは単なる偶然とは思えないからだ。現政権のみが戦後の長い政府の歴史の中で、4度にも渡って、二桁の死刑執行を行っているというのは。どんな理由があるのかわからないけれども、ある個人の恣意的な判断によって、さじ加減によって死刑という極刑が執行されるとしたらそれはやはり民主主義の、法治国家としての必要最低限の要件を満たしていないと言わざるを得ない。
「人権」という概念から出発している現代ヨーロッパでは基本的に死刑はありえない。個人的にも、死刑という人権概念から真っ向から対立する制度には反対する。例えそれが、オーム事件のような被害者の方々にとっては不条理意外の何ものでもなく、死刑を持ってしても、償いにはならないものでありせめて死刑をもってして償って欲しいという感情は痛い程分かるけれども。生と死の境界線は絶対的なもので、そこを越える事はいかなる理由があっても、国の名においてはするべき事ではない。
殺人という行為が死刑に値する程の「悪」であるのと同じように死刑という罰は国による殺人であって、それ自体は「悪」であることに間違いない。その点は「戦争」と全く同じだ。様々な歴史的な背景や国民感情など、今の日本では死刑制度はかなりの割合で支持されている。しばらくは日本から死刑制度が無くなる事はないと思う。だからこそ、その執行に関しては、誰もが同意できる「合理的な」透明性が要求される。感情的に知りたく無いという気持ちを乗り越えなければ、死刑制度そのものが感情的な補償に過ぎないものになってしまう。
















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# by kimiyasuII | 2018-07-09 22:32 | Comments(0)
2018 07 06 甘えん坊
一週間の海のバカンスに行ったスタッフから息子と撮った写真が送られてきた。トスカーナの海からだ。どこかで見た事があるイメージだと思いサーバーの中を探した。
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もう半世紀以上前に三保の松原で、母親と撮った写真が出て来た。
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50年という長い年月の違い、イタリアと日本という場所の違いがあるのにそこに写されている「イメージ」は全く同じもので、それは甘えん坊で母親べったりの息子と母親。そして、写真には写っていないけれども、この写真を撮った、シャッターを切った父親がこちら側に居る。同じイメージの瞬間にシャッターを切った父親の眼差しはやはり同じものだった。この二枚の写真に写し込まれているのは、家族の関係、両親とその子供という家族の関係以外のなにものでもなくて、それは時間や地域、人種を越えて普遍的に存在するものなのだろう。
この二枚の写真を見ていて改めて「写真の力」に驚いてしまった。単なる対象の光を写しとるだけの道具にしか過ぎない写真が、人間存在の本質の部分をも写し込んでいることに。

ここ最近の新聞に幼児虐待のニュースがあとを断たない。両親に殺されて行くまだ何も分からない、抵抗もできない子供の事を思うと、心が引き裂かれる思いがする。そして子供を殺す両親を思うと、怒りを通り越し、個人的な憎しみが湧く。
ひょっとしたら統計的には、幼児虐待は今日はじまったわけではなく、ずっと昔からあったのかもしれない。それでも昨今の様々な犯罪の形態を見ていると、それらと無関係ではなく「現代」特有の現象のような気がしてならない。その現代というのは、情報機器の飛躍的な進歩によるリアルとバーチャル世界の境界の喪失、溝を埋める事ができないほどに格差の広まってしまった社会。三保の松原で父親がこの写真を撮った時には、半世紀後の社会がこんなになるとは想像もしていなかった。社会はどんどん豊かになり誰もがその豊かさを享受できる社会に向かっていると思っていた。一体、この半世紀の時間の経過の中、どこで何が狂ってしまったのだろうか。そして誰がそのような狂った方向に今の社会を導いていったのだろうか。大きな歴史の誤りは過ぎてみれば、誰もが何故こんな事に、と思うのだけれども、その経過の渦中にいれば全く何が起きているか気付かない。そればかりか、その大きな誤りの一翼を担ってしまうことがしばしばだ。
ひょっとしたら現代は、あと数百年もすれば何故あんな時代があったのだろうかと思うような、そのような大きな誤りを犯している時代なのかもしれない。そしてその犠牲になっているのは、純真無垢な殺されていく子供たちなのかもしれない。幼児殺しを精神の異常な犯罪者の仕業とするのは簡単だけれども、その前に、知らない間にそのような共同体を作りだしている一員として、本当に「幼児殺し」の一翼を担っていないのか、考えてみるのもこんな事件の記事を読んだ後にしなければならない事だと思う。













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# by kimiyasuII | 2018-07-05 17:19 | Comments(0)
2018 06 28 VILLA PIZZO

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SD-15 70mmF2.8













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# by kimiyasuII | 2018-06-29 05:23 | Comments(0)
2018 06 27 モンテローザ 今年ももう半分お仕舞い

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SD-15 70mmF2.8












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# by kimiyasuII | 2018-06-28 04:19 | Comments(0)