人気ブログランキング | 話題のタグを見る
カテゴリ
イタリア

コモ湖畔の書斎から2 dalla finestra lariana2

2019 03 01 奇妙な一日 2
2,3年前に45年ぶりに、高校から全く音信の途絶えていた友人とフェースブックを介して、再会した。高校時代も特別親交があったわけでは無かったけれども、遥か昔の記憶を辿れば、一緒に能登半島に旅行に行ったりもした。彼が家出をした時には、先生から行き先を知らないかと電話が掛かってきたりもした。それでも45年、半世紀もたてば全く違った人生を歩んできた二人は遥か彼方の全く接点のない地平を歩いていた。彼は放送関係の仕事につき、僕はこうして何故かイタリアで建築の設計をしている。それでも僕たち二人は心の片隅に、お互いの存在を常に「意識」してきたのだろう。でなければ、300人以上いた同学年の中でただ一人、45年後に、突如の「再会」を果たしたりはしなかっただろうから。
その友人と再会した頃、僕は東京にある一軒の家を設計していた。その家に住むことになる若いご主人Aさんは毎日テレビに顔を出すような社会的にもとても大事な、影響力のある仕事をされている。24時間全く気の抜けない毎日を送られているようで、イタリアで一週間ほど家族みんなで息抜きをして頂いた。小学生の息子さんも僕と手をつないで街を歩き回ったりして楽しい時間を過ごした。
数ヶ月前だろうか、この高校時代の級友から、あるテレビ番組のアドヴァイザー的な仕事をするかもしれないと聞いた。そしてその番組とは、僕が設計した家に住む若いご主人が担当する番組だった。全く繋がりの無かった三人の関係が世代と地理の垣根を越えて繋がった。偶然というには余りに可能性の、確率論的には限りなく0に近い繋がりができたように思う。
僕が日本に帰国した際に、友人の奥さんも含めて僕たち4人は、レストランで食事をした。若いAさんは前日から出張していた取材現場から直行してくれた。
僕はつくづく人生は不思議な事象で成り立っていると思う。
45年前、能登半島を彼と旅行した際に、こうしてその半世紀後に東京のレストランで、偶然繋がりのできたまだ生まれてもいなかったAさんを含めて歓談をすること想像することができただろうか。
それはやっぱり単なる偶然というだけでは、余りに確率が低過ぎる。
ユングによればそれはシンクロニシティ、共時性という事になるかもしれないけれども、僕には何故かどこかに「神」的な力が働いて、このような論理的には不可能な事象が起きるんじゃないかと思ってしまう。僕はどちらかと言えば「科学」を信奉する典型的な世代に育ったからどうしても「唯物論」的な志向を持っている。突き詰めていけば「決定論者」であり、およそ「神」などは信じられない。でもこんな出来事に出くわせば形而上学的な何かに依拠しなければ説明がつかない。おそらくこのような出会いに説明を求める態度こそが貧しい唯物論者の思考であり、このような出会いを「生きる」ことこそが豊かさなのだと思う。






by kimiyasuII | 2019-03-07 14:51 | Comments(0)